この授業を一本の線で締める回です。先生の出発点はいつも同じで、『技術とは、我々にできることを広げるものだ』。でも、できるからといって全部やってよいわけではない。素手より刃物、刃物より銃の方が人を傷つけやすい。技術は『できること』を増やすが、『してよいこと』はそれとは別に考えないといけない。ここが技術倫理の入口です。这一节把整门课收成一条线。老师的出发点始终一样:“技术就是扩大我们能做的事”。但能做不代表全都该做——徒手不如刀、刀不如枪更容易伤人。技术让“能做的”变多,可“该做的”得另外判断。这就是技术伦理的入口。
前半は生殖技術。保険適用は少子化を直接解決するというより、国が出産・子育てを支援する姿勢を示す意味が強い、という学生の意見に先生も同意します。そのうえで難しいのが、単身者や同性カップルが生殖技術を使う場合。先生は単身者のケースの方が問題は大きいと考えます。理由はカントの言葉で説明されます。人間は『それ自体が目的』であって、他人を『単なる手段』として扱ってはいけない。単身で自分の目的のために子どもを作ると、子どもが手段に近づいてしまうのではないか、という懸念です。前半讲生殖技术。医保适用与其说直接解决少子化,不如说是国家表态支持生育养育——学生这个看法老师也同意。真正难的是单身者或同性伴侣使用生殖技术。老师认为单身者这种问题更大,理由用康德来讲:人本身就是“目的”,不能把他人当“纯粹的手段”。单身为自己的目的造孩子,孩子就可能滑向手段。
だからといって『子どもが欲しい』が悪いわけではありません。先生が問いたいのは、本当は欲しくないのに『産まなければ』と思い込んで苦しむ人がいる、という点。だから生殖技術を使うなら一度『なぜ自分は子どもが欲しいのか』を考えた方がいい。子どもを持つのは生物の本能ではなく、人間があえて行う倫理的な行いだ、という言い方をしました。但这不是说“想要孩子”有错。老师真正想问的是:有些人其实并不真想要,却被“必须生”绑住而痛苦。所以要用生殖技术,先想一遍“我为什么想要孩子”。生孩子不是生物本能,而是人特意去做的伦理行为。
後半は遺伝子診断から優生思想へ。診断には発症前診断(本人の問題)と、出生前診断があります。特に受精卵診断=着床前診断は体外受精とセットで、受精卵の段階で調べて『これはダメだから廃棄する』が起こりうる。これがいわゆる『命の選別』です。后半从基因诊断走向优生思想。诊断有发病前诊断(本人的事)和产前诊断。特别是受精卵诊断=着床前诊断,与体外受精配套,在受精卵阶段检查,就可能出现“这个不行,丢弃”——这就是所谓“生命的筛选”。
ここで選択的中絶という言葉が出ます。日本では中絶は基本的に違法で、母体保護法で例外的に認められているだけ。『やむを得ない』場合の中絶と違い、選択的中絶は『あえて選ぶ』中絶を含みます。産み分けが代表例で、これは倫理的に認められない。では障害が分かった場合は?ここが一番難しいところです。这里出现“选择性堕胎”。在日本堕胎基本违法,只是靠母体保护法例外允许。跟“不得已”的堕胎不同,选择性堕胎包含“特意去选”的堕胎,性别选择就是代表,伦理上不被认可。那查出有障碍呢?这是最难的地方。
先生が持ち出すのが優生思想(ユージニクス、『良い血統』の意味)。積極的優生思想(良い血統を増やす)と消極的(否定的)優生思想(劣った子孫を作らない)があり、現実に害が大きいのは後者。母体保護法の前身は優生保護法(1948)で、まさに優生のための中絶規定を持っていた。ナチスが障害者を『生きるに値しない生命』として虐殺した歴史も、この線上にあります。老师搬出优生思想(eugenics,“好血统”之意):积极优生(增加好血统)和消极(否定)优生(不产出劣等后代),现实中害更大的是后者。母体保护法的前身是优生保护法(1948),正带着为优生而堕胎的规定;纳粹把残障者当“不值得活的生命”屠杀,也在这条线上。
ただ先生は釘を刺します。『障害があるから産んではいけない』とは言えない。障害のパラドックス(障害があっても幸福度がむしろ高いケースがある/苦労を心配するのは育てていない側)を紹介し、そもそも『劣っている』とは何かを問い直します。障害は今の環境に適応していないだけで、環境が変われば利点にもなりうる。社会は、一人では負えない負担をみんなで分担するために作られている——だから『社会の負担になるから産むな』は社会の意味を否定する、と締めました。但老师叮嘱:不能说“有障碍就不该生”。他介绍“残障的悖论”(有障碍者幸福度反而更高的情况/担心辛苦的往往是没养过的人),并反问“劣等”到底是什么。障碍只是没适应当下环境,环境变了也可能成为优势。社会本就是为了把一个人扛不动的负担大家分担而存在——所以“会给社会添负担所以别生”反而否定了社会的意义。
カント:単なる手段として扱わない 康德:不把人当纯粹手段
カントは、人間の人格は自己目的的であり、他者を『単なる手段』として扱ってはならないとした。我々は買い物などで他人を手段として用いるが、それは『単なる』手段ではない。全面的に手段として扱うことはできない、という点がポイント。奴隷契約が本人の同意があっても許されないのは、人を単なる手段にするからだ、と例示された。康德认为人的人格是自我目的,不能把他人当作“纯粹的手段”。我们买东西也在把他人当手段用,但那不是“纯粹”的手段——不能全面地把人当手段。奴隶契约即使本人同意也不被允许,正因为它把人当作纯粹手段。
選択的中絶と母体保護法 选择性堕胎与母体保护法
日本では中絶は原則として認められず、母体保護法で例外的に許容される。母体の生命・健康を守る『やむを得ない』場合が本来の趣旨で、経済的理由など運用は緩い。これに対し選択的中絶は、やむを得ないとは言えない、あえて選ぶ中絶を含む。産み分けが代表で倫理的に認められない。障害が分かった場合をどう考えるかが、優生思想の問題へつながる。日本堕胎原则不被允许,靠母体保护法例外许可。本意是保护母体生命健康的“不得已”情形,运用上(含经济理由)较宽。相对地,选择性堕胎包含“并非不得已、而是特意去选”的堕胎,性别选择是代表,伦理上不被认可。查出障碍时怎么判断,就接到优生思想的问题。
障害のパラドックス 残障的悖论
調査によると、障害があっても幸福度がむしろ高いケースがある。『苦労するのでは』という心配は、実際に育てていない側が抱きやすい。障害は今の環境に適応していないだけで、環境が変われば利点にもなりうる。社会は一人では負えない負担を分担するために作られているのだから、『社会の負担になるから産むな』は社会の意味を否定する、と先生は締めた。调查显示,即便有障碍,幸福度反而更高的情况存在;“会不会很辛苦”的担心,往往是没有真正养育过的一方更容易有。障碍只是没适应当下环境,环境改变也可能成为优势。社会正是为分担一个人扛不动的负担而存在,所以“会给社会添负担就别生”反而否定了社会的意义。